古式腱引き継承者 筋整流法創始者 小口昭宣

現在私は、日本写真家協会に所属する写真家であり、コンピュータ関係の会社の代表をしています。まったくの畑違いの腱引きという施術師の顔を持つようになったきっかけは、今から二十数年前にさかのぼります。それまでは、腱引きをまったく知りませんでした。
大学の時からスキーなどをしていたこともあって、体を動かすことは好きでした。
ところが、二十九歳のころ、ひどいぎっくり腰になってしまいました。状況はよく覚えていませんが、二週間起き上がることもできなかったのです。

もう子どももいましたし、仕事もしていました。これは困ったことになったと、治療にも通いました。普通の整形外科はもちろん、整体やハリにも通いましたが、いっこうに効果がありませんでした。
這いずるような生活をしながら二週間が経った頃、見るに見かねた友人の担当医が、こんなことを言ったのです。
「小口さん、医者じゃなくて素人の人だけど、ひょっとしたら直るかも知れない。紹介するから、行ってみますか」
医者が手に負えないという時に紹介をしようという人ということに興味を持ちました。しかし、効果については正直半信半疑でした。
紹介された先は、普通の民家。特に目立った治療院という看板もなく、本当にここなのかと心細く、入り口をくぐりました。中には十人位が待っていました。
「ぎっくり腰か?」
這うように部屋に入ってきた私を見るなり、横になれと指示をしました。
「他の人も待っているのに、先にしてもらっては申し訳ない。待ってますよ」
「いいんだ、そんなの、すぐに終わるから」
すぐに?
二週間医者でも直らなかったものが?
はじめ、うつぶせになった私の腰と背中を触るようにしてから、仰向けにして足をいじりはじめました。
「ちょっと、痛いぞ。いいか」
「お願いします」といった瞬間、電流を流したような痛みがありました。
「ウグッ」
声にならないようなうめき声を発しながら、頭の隅には、あの痛い腰を、こんなにしてしまうなんて、直るなんてとんでもない。帰りはタンカかも知れない、という考えがよぎっていました。
「はい、おしまい。ちょっと立って屈伸してみて」
さっきまで痛かったぎっくり腰に立って屈伸しろなんて無茶なことをいうなと思いましたが、立ち上がろうとした時に、腰が軽いのです。痛みが消えていました。
「膝を曲げてみて」
恐る恐る、屈伸をする私をみて、治療を待っていた人たちが楽しそうにしています。
「痛くないです」
「当たり前だよ、直したんだから。今日はゆっくり風呂に入れよ」
「なんですか、これ。整体じゃないですよね」
「腱引きだよ」
まったく聞き慣れない言葉でした。
これが、腱引きとの最初の出会いでした。


押しかけ弟子志願

来た時にはひどいぎっくり腰だったにも関わらず、帰りにはぴょんぴょんと歩いて帰ることができること信じられません。そして、一回で直してしまう腱引きという技術にとても興味を持ちました。
私はどうしてもこの技術を身につけたいと考えました。
私の実家は、富士市でも有名な料亭を営んでいました。母親は切り盛りをしながら、立ち仕事が多いため、腰痛で悩んでいたのです。
自分が身につけてよくして、母親の痛みをよくしてやりたいと思ったことも、学びたいと考えた理由の一つでした。
「明日も来ていいですか」
「なんだ、もうよくなったじゃないか」
「覚えたいんです」
「覚えるぅ? 覚えるか。俺は弟子とか持たないんだけどな。じゃあ、とりあえず来て見ていな」
腱引きの治療をしたこの人が、私の師匠となった小林嘉一さんでした。
小林さんに許可をもらったので、次の日から時間のある限り、小林さんの治療院に日参しました。
小林さんはまったく広告も出さず、治療院には看板らしい看板もありません。
昼間は肉体労働をして、帰ってくるのは夜の七時頃です。治療をしてもらう人たちは、勝手に小林さんの家に上がり込んで、治療を待っています。毎日五人から十人は治療を待っていました。
治療時間は一人に対して五分から十分なので、九時半には終了していました。
風貌こそ、前歯のない怪しいおじいさんでしたが、自分でも治療を受けると、何かものすごい指の技を感じました。
評判を聞き、遠方から痛みを抱えた人がやってきます。治療を待つ年配の人と話をしていくうちに、腱引きというものを知っている人がいることがわかってきました。
昔は、腱引きをやってくれる人がいたけれど、いなくなってしまった。そんなに効果のある治療法があったにも関わらず、残っていないことが不思議でした。
小林さんにこの事を聞いてみると、その答えにびっくりしました。
「直りすぎちゃって、いなくなっちゃったんだよ」
腱引きは元々、柔術が修行の一環として治療をしながら、それと引き替えに生活の糧をえながら、集落を渡り歩く仕事だったのです。
一箇所に定着していては、そのまわりにいた患者さんがよくなってしまうと、生活の糧を得る方法がなくなってしまうため、腱引きの鉄則は、定着せずというものだったのです。
しかし、明治時代になり、住民登録など、国が居住地の管理をし始めると同時に、住宅事情も変化していきました。一箇所に家を持ち、定住する志向が強くなってきたのです。それまで漂泊の治療者だった腱引きが、定住するようになりました。
たぶん、定着した当時は、あそこにいい先生がいるという評判が生まれ、その瞬間は大繁盛だったのではないでしょうか。
その治療費によって、家を大きくし、立派な治療院を持つようになると、次第に患者さんが途切れがちになってしまったのだろうと思います。一回か二回でよくなってしまうので、まわりがどんどん健康になってしまったためです。
健康になってしまえば、治療に来る人も激減します。
当時は、広告をすることも、宣伝をするというようなこともありません。腕のいい評判が広まることもなく、患者さんが少なくなった腱引き屋は治療院をたたむしかなかったのではないかと考えます。
小林さんの師匠は東北に住んでいた柔術家としか聞いていません。自分が最後の伝承者だと言っていました。
小林さんとの雑談の中で、腱引きについての伝承を聞くことが多かったと思います。小林さん自身、伝承として聞いただけで、実際に治療に用いたことない技も多数ありました。
小林さんから口伝として、教えてもらった施術方法をノートに書きためました。
また、実際に治療を見させてもらいながら、質問攻めにしながらも、嫌な顔一ツせずに丁寧に教えてくれたのは、腱引きを引き継ぐ私という人が出てきたことが嬉しかったのかも知れません。
私も、本気で腱引きを身につけようと、小林さんの治療院には千回以上通い詰め、三年余が過ぎていきました。
師匠の小林さんから伝承を受けた腱引きと、施術をはじめてから、口伝として聞いてきた技術を現代に活用できるように、私は筋肉の仕組みを勉強し、体の構 造にあった施術方法を組み入れて腱引きを発展させていきました。そうすることによって、腱引きが全盛だった頃にはなかったであろう、多彩な痛みや症状に対 して効果を上げることができるようになりました。それを私は筋整流法と名付けました。
現在、講習会を開き、腱引きを習得するために受講生が集まってきています。ほとんどの受講生が、自分自身が腱引きによって改善した人たちばかりです。自 分の痛みが改善したことで、ああよかったと終わるだけでなく、腱引きのすごさを実感した人が、習いたいという気持ちになってくれるのは嬉しい限りです。